制度改革と市場メカニズムで支えるオーストラリアのネイチャーポジティブツーリズム

(文責:坂野 佑馬)

 先月、弊社NEWSでは、ドイツにおけるサステナブルツーリズムおよびアドベンチャーツーリズムの分野で、ネイチャーポジティブの考え方がどのように浸透しているかを紹介した。本稿では、ネイチャーポジティブツーリズムを国家戦略として前面に打ち出しているオーストラリアの政策動向を取り上げる。

 そもそも“ネイチャーポジティブ”という概念が国際的に広く共有されるようになった背景には、2022年の生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)で採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組(Kunming-Montreal Global Biodiversity Framework)」[i]がある。同枠組みでは、「2030年までに陸域および海域の30%を保全する(30by30)」という明確な数値目標が掲げられ、各国に対して自然損失を止め、反転させる行動が求められている。ネイチャーポジティブとは、単に自然への負荷を減らすという消極的な姿勢ではなく、自然資本を回復・増加させる方向へ社会経済活動を転換することを意味する。
 この潮流は、観光産業にとっても無縁ではない。世界旅行ツーリズム協議会(WTTC;World Travel & Tourism Council)や国連観光局(UN Tourism)によれば、観光セクターが生み出す価値の80%以上が健全な自然資源に依存しているとされる。一方で、1970年から2018年にかけて野生動物の個体数は平均69%減少しており、生態系の劣化は加速している。[ii]自然の崩壊は、観光産業の魅力や競争力を直接的に損なう構造的リスクであり、もはや環境問題は周辺的課題ではない。

 従い、自然への投資は倫理的配慮にとどまらず、観光産業にとっての経営リスク管理であり、持続的成長の前提条件なのである。こうした国際的背景のもと、オーストラリアは観光と自然回復を統合する戦略を打ち出し、ネイチャーポジティブツーリズムを国家政策の中核に据えているのである。

オーストラリアのネイチャ―ポジティブ政策の制定

オーストラリアはその広大な自然遺産を観光の柱としてきたが、政府は「観光客が増えるほど自然が豊かになる」仕組みの構築を目指し、ネイチャーポジティブツーリズムを国家戦略として位置づけている。オーストラリア政府の30by30の目標設定「Australia’s Strategy for Nature 2024–2030」[iii]の策定は、昆明・モントリオール生物多様性枠組の策定から2年後の2024年9月である。同戦略では、保護区の拡大だけでなく、劣化した生態系の回復、先住民との協働管理、民間資本の動員を柱としており、生物多様性を定量的に把握し、経済活動との統合の推進を強調している。

法制度面では、環境保護・生物多様性保全法(EPBC Act;Environment Protection and Biodiversity Conservation Act)の抜本的改革を行う「Nature Positive Plan」を進めており、独立した環境保護庁(EPA)の設置、環境基準の明確化、オフセット制度の厳格化などを通じて、開発と保全の両立を図っている。観光業へは「回復への純増(net gain)」の考え方が組み込まれ、単なる環境負荷の最小化ではなく、環境価値の創出が求められる構造へと転換が進んできている。

また、2023年に成立した2023年自然修復法(Nature Repair Act 2023)によって、2025年3月から政府認定による「Nature Repair Market」[iv]が本格稼働している。制度の中核は、森林再生、湿地回復、在来種生息地の拡張、侵略的外来種の管理などによって生じた生物多様性の改善を、科学的手法で定量評価し、「Biodiversity Certificates」として発行・登録する仕組みにある。管理は国営機関であるClean Energy Regulatorが担い、透明性確保のための公開レジストリと長期モニタリング義務が課されている。証明書は法的なオフセット義務を履行するための強制的手段ではなく、企業の自然関連リスク対応、ESG戦略、ブランド価値向上に活用される。これにより、農地や観光地を含む地域単位での生態系復元プロジェクトに民間資金が直接流入する経路が制度化された。

オーストラリアの観光業におけるネイチャーポジティブツーリズムの方向性

 観光分野では、2023年11月に公表された戦略「National Sustainability Framework for the Visitor Economy」[v]が、訪問者経済と自然資本管理を統合する政策指針となっている。同枠組みは、脱炭素化や資源循環のみならず、生物多様性保全と文化的景観の維持を観光政策の中心課題として位置づける点に特徴がある。特に強調されているのが、約6万5千年にわたり土地を管理してきたオーストラリアの先住民族(アボリジニおよびトレス海峡諸島民)の伝統知識を観光体験の中核に組み込むことである。先住民主導のレンジャープログラム、文化ガイドツアー、土地管理実践(例:文化的焼畑;cultural burning)の紹介などを通じ、観光客が単なる消費者ではなく、土地管理の価値を理解する参加者となる構造を目指している。

オーストラリアにおける主なネイチャーポジティブツーリズム例

  • Great Bailar Reefでのサンゴ礁保全ツアー

 Great Bailar Reefでは、一般のダイバー向けに「サンゴ礁調査」や「サンゴ移植」を体験・見学できる参加型保護活動を実施している。

写真. サンゴや海洋生物の状態・数を確認


出所:Tourism & Events Queensland のHPより引用

写真. 折れたサンゴの苗床造成の見学

出所:Tourism & Events Queensland のHPより引用

  • Daintree Rainforest における先住民族によるガイドツアー

 オーストラリア・クイーンズランド州北部にある、約1億8,000万年前から存在する世界最古の熱帯雨林であるDaintree Rainforestでは、2021年に先住民であるKuku Yalanji 族に土地が返還された。ここでは、Kuku Yalanji 族によるガイドツアーが数多く企画され、旅行者は実際の先住民から伝統的な生活方式を学ぶことができる。

写真. Kuku Yalanji 族によるガイドツアー

出所: Tourism Tropical North Queensland のHPより引用

 オーストラリアでは、政府がネイチャ―ポジティブツーリズムを国際的競争力の源泉として位置づけ、政策によって強力に後押ししている。生物多様性の回復成果を定量化し、資金循環の対象とすると同時に、その自然価値を観光体験やブランド価値へ転換する動きであり、結果として、観光収益が環境保全や地域コミュニティへ再投資され、自然資本の増加が観光の魅力と価格競争力を高めるという好循環を政策的に創出しようとしているのである。

 オーストラリアのアプローチは、「観光を持続可能にする」段階を超え、「観光によって自然を再生させる」段階へと進もうとする国家的挑戦であると言えるだろう。

引用

[i] https://www.cbd.int/gbf

[ii] https://www.untourism.int/nature-positive-travel-and-tourism

[iii] https://www.dcceew.gov.au/environment/biodiversity/conservation/publications/australias-strategy-for-nature

[iv] https://www.dcceew.gov.au/environment/environmental-markets/nature-repair-market

[v] https://www.austrade.gov.au/en/news-and-analysis/publications-and-reports/national-sustainability-framework-for-the-visitor-economy