アイルランドが目指す「環境を守る農業」 ~カーボンファーミングを制度化し、脱炭素効果と経済合理性を担保~

(文責: 坂野 佑馬)

 気候変動の進行により、GHG排出量削減は国際的な最重要課題となった。農業は排出源であると同時に、CO₂を吸収し土壌に貯める「炭素の貯蔵庫」としての潜在力を持つ。こうした視点から欧州では、農地や森林の管理を通じてGHGを削減・除去する「カーボンファーミング(Carbon Farming)」の仕組みづくりが進んでいる。
 アイルランド政府は、農業の高い比重をもつ自国の経済構造を踏まえ、EUの制度に歩調を合わせつつ、国内独自の「国家カーボンファーミング枠組み(National Carbon Farming Framework)」を構築する方針(案)を明確にした。2025年10月15日には、同法案に対する2回目となるパブリックコンサルテーションを開始した。本稿では、2025年10月にアイルランドの農業・食糧・海洋省が公表した報告書『Developments at EU level and draft Principles to develop Carbon Farming in Ireland』[i]をもとに、カーボンファーミングの全体像とその意義を整理する。

EUが整備した新制度:Carbon Removal and Carbon Farming Certification Regulationの枠組み

 2024年にEUは「Carbon Removal and Carbon Farming Certification Regulation(CRCF)」[ii]を採択した。これは、炭素除去およびカーボンファーミングをEU域内にて統一的に認証するための初のEU法である。従来、各国や企業がバラバラに行っていたCO₂削減・貯留の取組を、共通ルールで評価・比較できるようにした。
 CRCFは3つのカテゴリーを対象とする。第一に、DACCS(Direct Air Capture with Carbon Storage)やBECCS(Bioenergy with Carbon Capture and Storage)などによる恒久的な炭素除去技術、第二に農地や森林でのCO₂吸収・排出削減を図るカーボンファーミング、第三に木造建築など長寿命製品内での炭素貯留である。
 今後、CRCFは共通農業政策(CAP;Common Agricultural Policy、EU加盟国27カ国に対し共通して講じられる農業政策)や多年度財政枠組(MFF;Multiannual Financial Framework)にも反映され、環境に良い農業が正当に報われる経済構造をつくる基盤となる見込みである。

アイルランドが目指すNational Carbon Farming Frameworkの方向性(案)

 アイルランド政府は、EU制度を踏まえ、2026年までに国内のカーボンファーミング制度を正式に発足させる計画である。その目的は3つに整理される。「① 気候変動対策としてのGHG削減」、「② 農地からの栄養塩流出を抑制する水質保全」、「③ 生物多様性の回復」である。この3目標を一体的に進め、環境価値を生み出す経済活動に農業を転換することが狙いである。
 アイルランド国内の農業部門のGHG排出量は2018年比で約4.6%の削減に留まっている。2030年に向けた25%削減目標を達成するには、既存の技術改善だけでは不十分であるため、政府は環境価値をカーボンクレジットとして取り扱えるようにし、農家が新しい収入を得られる道を拓こうとしている。

アイルランドのNational Carbon Farming Frameworkにおける9つの基本原則(案):信頼性と公正性を両立させる制度設計

 報告書では、制度設計を支える9つの基本原則が示された。EUの「QU.A.L.ITY原則(Quantification、Additionality、Longevity、Sustainability)」[iii]を踏まえつつ、アイルランド独自の要素を加えた構成である。

(1)定量性(Quantification):科学的測定の徹底:
 CO₂削減・貯留量は、衛星観測、ドローン、土壌サンプリングなどを用いて科学的に測定する。IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change、気候変動に関する政府間パネル)が定めたGHG排出量の測定方法に準拠し、データの透明性を確保する。将来的にはEU全体で標準化されるMRV(Measurement、Reporting、Verification)システムと統合される見込みである。

(2)追加性(Additionality):義務を超える努力:
 新たな努力で実現したGHG排出量の削減量のみを評価する。各農場ごとに基準年(ベースライン)を設定し、そこからの削減量を算出する仕組みである。最低5年間の継続を義務付け、短期的取組による水増しを防ぐ。

(3)永続性(Longevity):リスク管理と期間設定:
 森林火災や伐採などで貯留した炭素が放出されるリスクに備え、その分の環境価値を「バッファ証書(Buffer Credits)」として義務的に積み立てる。カーボンファーミングは5年ごとの再評価が義務付けられる。

(4)持続可能性(Sustainability):生態系への配慮:
 カーボンファーミングが他の環境を損なわないよう、「重大な環境損傷なし(DNSH;Do No Significant Harm)」[iv]の原則を適用する。生物多様性や水質を副次的便益(co-benefits)として位置付け、「環境バランスシート(農場全体や地域全体で「排出」と「吸収」のバランスを包括的に評価するための仕組み)」を導入して炭素の漏洩を防止する。

(5)第三者検証(Independent Verification):
 制度の信頼性を高めるため、独立した認証機関による第三者検証を義務化する。

(6)公開登録制度(Public Registry)
 全ての認証結果は公開レジストリに登録され、二重計上や不正利用を防ぐ。2028年までにEU共通のレジストリが整備される予定であり、アイルランドはそれまで国内レジストリを暫定運用する。

(7)公正な移行(Just Transition):
 大規模農家だけでなく小規模農家や地域共同体も参加できるよう配慮する。経済規模や情報格差による不公平を是正し、農村社会の持続性を確保する。

(8)既存施策との統合(Integration):
 既存の環境支援策と連携し、制度間の重複や矛盾を避ける。既存データ・研究成果を活用し、行政コストを最小化する。

【既存の環境支援策の例】

  • ACRES(Agri-Climate Rural Environment Scheme)[v]
     アイルランド政府の農業環境支援制度であり、農家が生物多様性や水質、気候変動対策に貢献する取り組みを行うことで報酬を得られる仕組みである。行動結果に応じて支払いが変動する成果連動型の制度で、被覆作物(土壌を裸のままにせず、地表を覆うために植える植物)の導入や湿地保全、肥料削減などの具体的行動を促す。
  • Teagasc Signpost Programme[vi]
     科学的根拠に基づいて農業部門のGHG排出量削減を現場レベルで実行に移すことを目的としている。農家へ施肥最適化や家畜管理などの具体策を指導し、実測データを収集している。MRVシステムを現場で確立し、将来のカーボンファーミング制度の定量化基盤となる役割を果たしている。
  • Origin Green[vii]
     アイルランド食品庁(Bord Bia)が運営する国家的な食品・飲料サステナビリティプログラムであり、農場から企業、販売までの全サプライチェーンを対象としている。企業はエネルギー・水・廃棄物などに関する数値目標を設定し、第三者の監査を受けながら毎年進捗を報告する仕組みである。国全体の信頼性の高い環境データを形成しており、今後は農業現場で生まれた環境価値を企業のScope3排出量削減や市場取引と結びつける架け橋として機能する。

(9)実践から学ぶ(Learning by Doing):
 「完璧な制度」を机上で設計するのではなく、まずパイロット事業を実施し、課題と成果を共有しながら制度を改善していく。

National Carbon Farming Frameworkの実践例:農家・企業・政府の協働モデル

 報告書では、すでに試行されている事例も紹介されている。代表的取組とされるのが、Woodland Environmental Fund(WEF)[viii]である。これは、企業が資金を提供し、農家が自然林を育成する仕組みである。企業はカーボンクレジットを取得せず、社会的貢献として評価を受ける。農家は15〜20年間、1ヘクタールあたり1,000ユーロの年間プレミアムを受け取る。単なる植林ではなく、生物多様性と地域経済の両立を図るモデルである。
 また、被覆作物やアグロフォレストリーを導入した農場では、5年間で基準年比10%(約99t CO₂相当)の削減を達成し、成果をクレジット化して販売する試みも進んでいる。

アイルランドの試みは、単なるGHG排出量削減策ではなく、「環境を守ることが経済的価値を生む社会」への転換である。農業を排出源から解決策へと再定義し、農家・企業・政府が協働する新しい経済モデルを提示している。カーボンファーミングは、炭素だけでなく、水の循環、生物多様性、地域コミュニティという「自然資本」全体を再評価する政策でもある。今後、EU各国がこの流れに続くか、またアイルランドが制度をどこまで実効的に運用できるかが注目される。

引用

[i] https://assets.gov.ie/static/documents/a2782ad1/Dev_at_EU_level_and_draft_Principles_to_dev_Carbon_Farming_15_October_2025_Fi.pdf

[ii] https://climate.ec.europa.eu/eu-action/carbon-removals-and-carbon-farming_en

[iii] https://www.ecologic.eu/19080

[iv] https://knowledge4policy.ec.europa.eu/glossary-item/do-no-significant-harm_en

[v] https://www.gov.ie/en/department-of-agriculture-food-and-the-marine/campaigns/agri-climate-rural-environment-scheme-acres/

[vi] https://teagasc.ie/environment/climate-change-air-quality/signpost-programme/

[vii] https://www.bordbia.ie/industry/origin-green/

[viii] https://www.gov.ie/en/department-of-agriculture-food-and-the-marine/services/woodland-environmental-fund/